台風が来ているせいか、
今朝は、肌寒くって、布団から出たくなかった。

この頃、かなりダレテいるなあ~


なぜか、あの暑かった日々が恋しい!!

暑ければ暑いで、
毎日こぼしていたのになあ~

なんて、勝手なと、笑ってしまう。


昨日の夕方、伯父の家を訪ねた。

少々血筋のことで、聞きたいことがあった。

しかし、すでに記憶は遠のいていた。
伯父は、すでに、90歳~

あんなに、大きな声で、人生を説いていたのに~
そんな思いがしたが~。

そして、ヘルパーさんが計ってくれる
血圧の話をしていた。

最高が195、最低が76だという。

こんなに血圧が高くって、困った。
若い時に、不節制をしたからだという。

まだまだ、長生きをしたいのでしょうね~。


なんか、自分の身勝手さと重なって見えた。



蓮4044 
d0041158_15475293.jpg

[PR]
# by sidu-haha | 2005-09-25 15:49 | Comments(0)
ハナノキ(ハナカエデ)に出会った~
昨日、雨の晴れ間に散歩に行って来ました。

このところ、ずっと、雨降り~
今日も、朝から、降り続いています。

そこで見つけた可愛い花~
樹木の花ですが。

高い所に植えられていた木なので、
特別、気をつけていなかったのですね~~

とにかく、初めて見る花だったので、
「このきなんのき掲示板」さんで、教えていただきました。

すると、「ハナノキ(ハナカエデ)」というのだそうです。
しかも、当地方には、自生しなとも~


そこで、ネットで検索してみました。
すると、長野・愛知・岐阜・滋賀の4県にのみ自生ということでした。
国の天然記念物になっているのですね^


春は、智恵が増えますね~
お蔭様で、一つ、お利口になったような気がします。

それにしても、きれいな、可愛い花でした。


おまけに、こんな素敵なものにも会えました。
せっかく作った蜘蛛さんには、ちょっと、不憫なのですが~

d0041158_1029020.jpg
d0041158_10291083.jpg
d0041158_10292176.jpg

[PR]
# by sidu-haha | 2006-04-12 10:30 | Comments(0)
春の松島~

お水主町の調査で、松島海岸から、旧水主町通りを歩いて来た。

いつも見ている通りを北へ向かう一本道が水主町通りだった。
通りの入り口は、天守閣というお城のような建物が目印になった。
左手には、岩山を穿って階段が残っている。
ここには、以前白鴎楼という貴賓のためのホテルがあったという。
さぞかし眺めのよいホテルに違いなかった。
昭和天皇も泊まったというが、今は跡形もない。

すぐ近くにラーメン屋があった。
このラーメン屋で、いろいろ教えてもらい、資料もいただいた。
とっても良い人たちだった。
一緒になったお客ともお話しをして、二時間近くをこの店で過ごした。
奥さんが作るというラーメンも、とても美味しかった。
それに、何と言っても価格がすごく安いのがいいね。


旧水主屋敷は、現在の「どんじき茶屋」だと、海岸の遊覧船ゆかりの人に教えてもらったので、
そちらへも向かってみた。
なんと、そこは、約二十年も前に、菊池先生ご夫妻と一緒に、お茶をいただいた店だった。
うっかりしていたね~

お店の中で、甘酒をいただき、店主にいろいろ伺う。
彼女も水主衆の子孫だった。
町史によれば、古文書の残っていた本村家の人だった。

茅葺の懐かしい空気の家だった。
屋根もきれいに手入れされて、土壁の天井がむき出しの家~
今は見られなくなった建物だった。
冠木門がついて、旧宮田亭だという。

この調査で、すっかり松島が気に入ってしまった。
松島の人たちの人情にもね~

とっても楽しい調査だった。
d0041158_5532223.jpg
d0041158_5534135.jpg

[PR]
# by sidu-haha | 2006-04-07 05:54 | Comments(0)
怪獣のような風が~
d0041158_9471373.jpg
なんて強い風でしょう~。
昨夜から、怪獣の吼えるような声で、風が吹いています。
とっても怖い!!


d0041158_9462990.jpg
d0041158_9472392.jpg

[PR]
# by sidu-haha | 2006-03-20 09:47 | Comments(0)
タグ専用BBSが~
これが、なかなかうまくいかないんだよね^

私は、よっぽどのすっとこどっこい~
だから、全然書いてあることが理解できない~

ああ~^、おもしろくないね~

なんとか、分かるようにしたいけど、
ついつい、自分の仕事の忙しさに負けて^
そっちの方は、おざなりになってしまっている。

d0041158_19134474.jpg
d0041158_1914049.jpg
[PR]
# by sidu-haha | 2006-02-02 19:14 | Comments(0)
伯父が死んで、母の族はいなくなった~
なんだというのかなえ^
弟は、行っても迷惑をかけるという。

なんで、私は、特別、何もしていないし、
しようともしていないよ。

ただ、母の兄弟がだれもいなくなったのが、
悲しかっただけで、
せめて、最後の伯父の骨を拾いたいと思っただけなのに^

あいつは、いつも、自分勝手な思いこみをいう。
なんで、自分の女房を行かせるのに、
私はダメだというのか。

あいつは、言った。
おらいは、母の家の代表だからね~だって!!

バカ!!

葬式だって、行きたくないよ~。
もう、かかわりたくない~。

d0041158_231368.jpg

[PR]
# by sidu-haha | 2006-01-26 23:13 | Comments(0)
地名かな。
d0041158_17385946.jpg

1.地名に対する一般の考え
地名というと、ただの記号とか、住所の記載の為の、あるいは税金徴収の為に必要なものだと、いとも簡単に考え、行政も為政者もその価値について重要視する人が少ないというのが現状である。
国は、たびたび大掛かりな市町村合併を繰り返してきた。その都度地域住民は先祖以来の誇りと伝承を持つ地名を失ってきた。そして、失った地名の中にこめられた事実や歴史、先人の知恵や教えをすっかりないがしろにしてきたと言える。
たとえ学者の中に気がついた人がいたとしても、それを表面化してきた人は少ない。気がついて後世へ語りかけようとした人はいたが、それを受け止めた人は何人いただろうか~。
それが、地名に課された現実であり状態である。

2.一口という地名
一口と書いて、なんと読むのか、知っていた人は少ないと思う。ましてこの地名にこめられた祖たちの祈りにも似た心境なら、もっと知らないでいたといえる。現実的には、漢字を音読みにして、ヒトクチと読む人が増えているのではないか。そして行政もいつの間にかヒトクチという地名だったと表記するようになっていく。それが現実だ。
 この地名は、イモアライと読む。イモとは、疱瘡つまり天然痘のことである。古代人はワクチンや予防注射などというものの存在を知らない。したがってたくさんの人が感染していき、最後には家族全員ならず集落全員をも死にいたらしめるこの大病を恐れおののいた。人々は、集落の境に神祭りをし、お払いをして、疱瘡が集落に進入することを阻止しようとした。つまり斎払い、忌み払い、忌み洗いなどが転化してイモアライと言葉が変わったのだろう。
なぜ一口と表記されたかまでは定かでないが、そんな思いが地名となって残ったのである。古代人ならずとも、家族を守ろうとする人々の気持ちがよく理解できるのではないだろうか。そんな思いのこめられた地名が、ワンサと身近に残っているとしたら、少々考えなおさなければならないのでは~。

3.地名の最古の記録
これは、国内の記録ではなく、中国の『魏志倭人伝』に記録されたものです。その中には、30ほどの地名が記録されており、日本の地名の最古の記録です。もちろん『魏志倭人伝』については、すでにご存知のことと思いますが、一応ここに復習の意味をかねて話してみますと、『魏書(東夷伝)』にある倭人に関する記事のことで、邪馬台国(やまたいこく)とその女王卑弥呼(ひみこ)について記されており、三世紀の日本の政情・風俗などを知りうる文献として広く知られています。

記録 読み 該当地 記録 読み 該当地
対馬 つま 対馬 末廬 まつろ 松浦
一支 いき 壱岐 奴 な 那=名島
伊都 いと 糸島半島 不弥 ふみ ?
投馬 とうま ? 斯馬 しま ?

次に、国内の記録の古いものとしては、文献ではなく、発掘品あるいは出土品の中の文字に織り込まれた地名があります。一つは和歌山県橋本市、隅田(すだ)八幡神社所有、国宝「人物画像鏡」の銘文で、そこには『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』と刻まれており、意柴沙加宮(おしさかのみや)が地名になります。意柴沙加は古事記に中では、忍坂と記されている地名です。現在の桜井市忍阪のこととされ、神武東征の伝承の舞台として知られています。
 もう一つは、昭和五十三年に発見されて解読された埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣の文字に「斯鬼宮(しきのみや)」の地名があります。
そのほか「和名類聚抄」という日本最古の百科辞典には各地の地名が記されており、万葉集にも各地の地名が記載されています。

4.地名の転化
 日本の地名は、本来の意味とかけ離れた文字が当てられていることが多々あります。それが、時代と共に文字も変わり、本来の意味も変化していく要因の一つです。また古代においては、地名の文字を二字で表記するようにとか、印象のよい文字を当てるようにという法令がありました。それは、好字・嘉字といわれるものです。
その例として、大阪は古くは和泉国ですね。もっと以前はただ単に泉と書いていたのです。また『出雲風土記』に記載されている拝志は古くは林と表記されていた。武蔵国は、もともと牟邪志(むざし)、牟佐之などと書かれていた。遠江(とおとうみ)や近江(おうみ)も元は「遠淡海(とおつあふみ)」と「近淡海(ちかつあふみ)」であったのを二字化政策で短くしてしまった。遠淡海とは都から遠いところにある湖ということで浜名湖を指し、近淡海は近い湖ということで琵琶湖をさしている。

5.アイヌ語で解ける地名
 アイヌ語といえば北海道とすぐ思われるかもしれないが、東北にもたくさんのアイヌ語地名が散見できる。これはかつて、アイヌ語を使用して生活していた人たちが住んでいたことの証明である。だからといって、それが必ずしもアイヌ人だったとは言い切れないので注意を要する。
宮城県内でも数は少ないが見られる、たとえばかつて大きな沼として存在した品井沼は、シナイがアイヌ語である。シは「親・本当の」などの意味があり、ナイは「沢や川」を示す。つまり「本流の川」で、品井沼は「本流の入り込んだ沼」となる。その沿岸にある大郷町不来内(こずない)は、やはりアイヌ語で解釈できる。コツは「窪んだ」とか、「谷間」の意。ナイは、「沢とか川」という意味だから、[窪んだ沢]とか、[谷間の沢]となる。この辺りは元禄年間から干拓が始まった品井沼の沿岸に位置しており、その入江に拓けてできた集落である。県内には、まだまだアイヌ語で解ける地名がある。

6.災害と地名
 地名には先人のメッセージがたくさん籠められている。その中でも崩壊地名と言われるものがある。例えば小豆島というのがあるが、これは古くはアズキシマと呼ばれていた。
それが文字化されたことにより、その文字を音読みしてショウドシマとなったのである。アズは、崖地に多く、アスは「崩れやすい所」という意味を示す。したがって崩れやすい崖の意味になる。事実昭和51年9月13日の台風13号が西日本に居座ったとき、小豆島ではあっちこっちで山崩れが相次ぎ、大きな被害をもたらしたという。同じ小豆島の名勝である寒霞渓(かんかけい)も、元は神懸山(かんかけやま)と呼ばれ、火山性の集塊岩が不規則に崩れて奇観を見せている。懸・掛・欠などのつく地名は崩れやすい崖やその地が欠けたということを語っている。地名はまさしく大きな暗号を持って、先人の思いを伝えているのであると言える。

7.地名ランキング
これは宮城県内の場合であり、データは少々古いのでお断りしておく。

1 谷地 180 6 袋   40 11 反   31
2 待井 170 7 赤坂  37 12 十文字 26
3 要害 76 8 竹花  33 13 石押  24
4 在家 43 9 坪   31 14 曽根  22
5 埣  41 10 百目木 31 15 水押  18

8.地名は人と共に移動する
古代には、人の移動や移配がたくさんあった。大和朝廷や武家制度の徹底を図る為に、たくさんの人間の移動や移配があった。移動は東北の蝦夷(えみし)に対する王化の侵攻で、特に関東からの移動が多かった。歴史的にも記録が少しはあるが、今日では関東系土器と呼ばれる特殊な土器の出土により、まさしく関東からの移動や移配がたくさんあったことが証明されている。しかし、地名はそれ以前に、ずっと早くからそれを私たちに伝えていたのである。

曰理郡望多郷 上総望多郡 名取郡磐城郷 陸奥磐城郷
賀美郡 武蔵国賀美郷 玉造郡志太郷 常陸国志太郡
小田郡賀美郷 武蔵国賀美郷 志太郡志太郷
賀美郡磐瀬郷 陸奥国磐瀬郷 志太郡
色麻郡安蘇郷 下野国安蘇郷 新田郡 上野国新田郡
色麻郡相模郷 相模国 牡鹿郡賀美郷 武蔵国賀美郡
桃生郡磐城郷 陸奥国磐城郷 栗原郡会津郷 陸奥国会津郡
登米郡行方郷 常陸国行方郡
陸奥国行方郡

9.地名が語る重要性
 この頃は国の政策で合併が進められて、思いがけない地名が生まれている。たとえば東北では奥州市(水沢周辺)、南三陸町、東松島市なんていうのが生まれた。これって、ほんとにそのエリアに該当しているだろうか。そんなに大きなエリアを名乗るほどの地域なんだろうか。よく考えてほしかったです。
 地名は、決して、ただの記号じゃない。地名は、言葉の化石であり、共同意義を持ち、記号以上のもので、大変崇高なものである。たまには、トンチやクイズで解ける楽しいものもある。どうか、よく考えて、エリアの歴史・民俗・習慣・言い伝え・生活や地形にこだわって欲しい。
地名については、まだまだたくさん書くことがありますが、今回はこれくらいにして止めておきます。また、お会いできるまでの楽しみといたしましょう。d0041158_17392128.jpg
[PR]
# by sidu-haha | 2005-11-04 17:39 | Comments(0)
柴田へ行った。
船迫

柴田郡柴田町船迫(ふなばさま)

平成17年10月22日(土)
d0041158_229973.jpg
d0041158_2292955.jpg
d0041158_2294316.jpg三陸道から仙台東部道路を経て亘理で降り、亘理町田沢から槻木へ出て、槻木駅のあたりから旧道を進み、白石川べりから船迫へと出た。
白石川は阿武隈川へ注ぐが、その注ぐあたりが船迫だ。白石川の流れが船迫地区を東西に分け、川の東側より西側の方に多くエリアが広がり、川は大きく蛇行していた。旧国道4号に沿って川に近い地区は、以前には畑地だったというが、現在は造成開発されてほとんどが姿を消していた。15年ほど前に新興住宅地に越して来たという男性が畑仕事をしていたのが印象的だった。

柴田町本船迫字城生内(じょうせいうち)
船迫は、西の丘陵に挟まれた地形、つまり迫からの地名の起こりと思われた。国道4号に横断された集落は、奥へ進むと次第に丘陵地が迫るようになり、手前には少々の田んぼと住宅地が迫っていた。この田んぼを「川田=かわだ」というそうで、昔は川だったのでそう呼ぶのだろうと沢の奥の方の方が話してくれた。町史をみると柴田町には、近年まで沼や川、堀が多くあり、山手の入間田字御釜には海食崖も見られるという。
 船迫とは、こうした地形からの命名で、丘陵の間にひらけた地で、川がまだこの地区まで入り込んでいた、つまり船が入り込んでいた狭間(はざま)という意味の地名であろう。
現在は、わずかに残る田んぼがその姿を残しているようだ。その奥の城生(じょうせい)にお住まいの宮城よし子さん(72才)さんのお話によると、昭和61年の8・5豪雨の際、上の山(うわのやま)から流れて来た水で、街の方の田圃が浸水したという。そこはかなり低くなっており、もっと以前にもそうしたことは何度もあったと想定される低地だった。地域を水路が流れているが、上流部では歩道の下に隠されていて見えなくなっており、現在でも大雨がふると城生では山水が溢れ流れてくるということだった。
この川は、昔から「ビッキがションベンたっと水があがる」といわれ、蛙とそうすると川が氾濫したのだという。この川が現在の田圃で、昔は川が狭くて、低かったこと言っているのだろうという。
 丘陵の末端にひらけた平地北側には、現在柴田高等学校や仙南自動車学校が建ち、南側には、住宅地、その中間に田圃が少しと水路が流れている。この地区の奥に城生、朴ノ木(3、4軒の家がある)、田小路、上ノ前(かみのまえ)などの地名がり、さらに進み登った高台には太陽の村というレジャー公園が整備されているという。
町道2号を進むと村田町や仙台への道になっており、静かな地区にしては結構な交通量があった。

地名の由来
船迫の地名を柴田町史にみると、三つの記録があるという付会伝説が記されていた。それらの記録とは、①「安永風土記」②「船迫あれやこれ」③「発汗阿弥陀略縁起」である。
内容はほとんど同じで、その内容は「むかし、十八津入(くぐついり)屋敷前通は入海であった。ある日、どこからか丸木舟に乗った尼が一人来た。この尼の乗った舟が「迫り沈申候ニ付」舟迫という村名になった。十八津入屋敷前通りの田圃のなかに舟の沈んだ跡が今も舟の形のまま残っている。」というもの。
 他に、白石川の上流に住む姫が、下流に住む恋人に会うために小舟をあやつりながら川を下ってきたが、さがしあぐねて失意のうちに入水したという説話も残っているとのこと。
 これら付会説話からも、川がこの地区に入り込んでいたことがうかがえる。その川を舟で航行しなければ行けない地形からの由来と見れる。また、舟の形にひらけた地形という説もある。
[PR]
# by sidu-haha | 2005-10-23 02:30 | Comments(0)
寒いなあ~
d0041158_1547293.jpg
筆甫のもののけ男達~






ものすごい馬鹿か、変人奇人が集まってきた。

場所は、とっても辺鄙な山の中~
江戸時代には、隠れキリシタンの里だった所~。


隠れキリシタンは、製鉄の技術を持っていた。
製鉄は、別の言い方をすれば、タタラ吹きのこと。


 
ご先祖様たちがやっていた製鉄を復元してみようじゃないか~
と、6人ばかりが談義した。

その実験を、一年に3回から4回の実験をしているという。


まあ、言えば、
曲がってみるような馬鹿(ではないが~)が、
とにかくやってみよう!!と、

「まんず、うめものくって、楽しくやっぺす~」
と、終わった後の酒を楽しみに、始まった。


先だっての日曜は、その開始三年目の記念日~

私たちも招待をされた。
ということは、
私も曲がってみるような馬鹿の一人~。(⌒▽⌒;;;Aアハッ

そんな馬鹿が、全国から集まって来た。

昨年、秋田でも会っているので、
まるで、同窓会のようなもの~

みんな、「いや~、うれしいっちゃね!!。
楽しいちゃっね~」と、ワイワイガヤガヤ~

朝、3:30に起きて、
家を出たのは、4:00過ぎ~

それから、はるばると高速を使い、国道を走り~。
道を間違いながら、到着したのが、6:30.

すでに炉には、火が入っていた。


最初の砂鉄と炭の投入が6:44~

さあ~、これからが、火との戦い~
男達は、きりっと顔を引き締め^
余計なことは言わず、黙々と始まった。


そのうちに、遠くからの馬鹿が集まってくる。

みんな、ニコニコしてね~。

男達の奥さん達が、
朝ごはんを食べていない人たちのために、
おにぎりやお煮しめ、漬物、
それと熱い火を使うので、冷たいものが、わんさと集まって~


もう、みんな楽しいの一言に尽きる感じ~

砂鉄は、阿武隈川から採集~。
炭は、地元で作られた。

すべての道具は、会員達の創意工夫のものばかり。

絶対にお金をかけないで、
廃品をつかったり、略奪とは言えないが~、
知人達から、
「あれ、くれっちゃや~^」と、貰ってくるのだという。

とにかく、みんな賢いし、器用だ。
恐れ入ってしまう。
これは、砂鉄選別器~
会員が、偉い先生が書いた図案を基に、
考案して作ったそう~


いよいよ佳境に入って来て、
鉄がうまく吹いているかどうかを確認する為の、
ノロ出しをした。

どうやら、炉底がノロで固まってしまったよう~


でも、決して会員達は、あわてない~

なんせ、実験の成果もさることながら、
できなかったら、できないでいいじゃない~。
という感じだから、最善は尽くすが、
失敗を失敗とは思わないことにしているだという。

やっと、ノロが出て、
またまた、砂鉄や炭を投入^

「体験してみたい人は、どうぞ~」
ということで、外野の人たちも、砂鉄や炭を
釜に入れてみることになった。

この人、東北大学院の教授~。
初めての参加だ。

もち、私もやらせてもらったよ~。

出来たケラは、約9キロ~。
成果としては、まずまずの出来だった。

中心になって指導した人は、
ほっと、棟をなでおろしていた。

もちろん、夕方は、全員が集まって、
飲んだり食べたり、ワイワイガヤガヤ~
楽しい時間が過ぎて行った。


朝早かったのに、夜は夜で、遅いから、
時間がすっかり過ぎた今頃~
とっても眠くなってきた~。

お昼寝をしないと~。(⌒▽⌒;;;Aアハッ





[PR]
# by sidu-haha | 2005-09-21 21:03 | Comments(0)
九条良経ー3
d0041158_2155983.jpg
熊野本宮焼失

建長六年(1254)成立の橘成季編著の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に熊野本宮が焼失した火災のことが書かれた話があります(巻第十三 哀傷第二十一 四六六)。
後京極良経曲水宴を催さんと日到らずして薨去の事
 後京極殿(藤原良経(よしつね)。後京極良経、九条良経とも。1169~1206)は詩歌の道にお優れあそばして、寛弘・寛治の昔を忍んで、建永元年(1206。元久三年。四月二十七日改元、建永元年となる)三月に京極殿(旧上東門院第。第(てい)は邸の意)にて曲水の宴を催そうと思い立ちになられた。
 藤原良経は和歌にすぐれ、十九歳の若さで『千載和歌集』に入集、二十五歳で「六百番歌合」を主催、建仁元年(1201)の和歌所開設に当たっては寄人筆頭となりました。『新古今和歌集』では、仮名序を書き、七十九首もの歌を入集させています(入集歌数は西行・慈円に次ぎ第三位)。
み吉野は山もかすみて しら雪のふりにし里に春はきにけり(春歌上 1)
吉野は山も里も霞んでいる。白雪が降っていた里に春が来たのだなあ。
 これが『新古今集』巻第一の第一首目を飾る良経の歌。
 寛弘・寛治の昔とは、寛弘四年(1007)三月三日に左大臣道長が上東門院第で催した例と寛治五年(1091)三月十六日に内大臣師通(もろみち。道長の孫)が六条水閣で催した例とを指します。
 巴(ともえ)の字のように湾曲して水を流し、住吉神社付近の松を引き植えなどして、さまざまにご趣向を凝らしていたが、熊野山炎上の噂が届いたので、三月三日を延期して中の巳(?)を用いられた例もあるといって十二日に行うとお決めになったところ、七日の夜に急にお亡くなりあそばした。人々の秀句はむなしく家に残されました。御歳三十八である。惜しく悲しいことであった。
 定家卿(藤原定家、このとき四十五歳)はこのことを嘆いて、家隆卿(藤原家隆、このとき四十九歳)のもとへ歌を申し遣わした。
昨日までかげとたのみし桜花 一夜の夢の春の山風
昨日まで木陰をつくってくれると頼みにしていた桜の花が一夜の夢を見ている間に春の山風に散ってしまったことだ。
 その返歌、
かなしさの昨日の夢にくらぶれば うつろふ花もけふの山かぜ
昨日良経卿が急逝せられ、夢のような気持ちがしているが、今日も山風に桜の花が散っている。
 後京極殿の御子の前内大臣(藤原基家。1203~1280。良経の三男)が大納言のとき、三十首の歌を人々に詠ませて撰定なさったとき、慈鎮和尚(慈円。良経の叔父。天台座主・大僧正)が往事のことを思い出しになって、「水に寄する旧懐」と題して歌をお詠みになった。
思出(おもひいで)てねをのぞみなく行水(ゆくみず)にかきし巴(はの)字の春のよの夢
良経卿のことを思い出して泣いてばかりいる。巴の字のように流れる水に数かくよりもはかないと歌われた春の夜の夢のような人生を思う。
 定家卿が同じ心を、
せく水もかへらぬ波の花のかげ うきをかたみの春ぞかなしき
せき止めても返らない行く水の波に流されていった花(良経卿)の面影がつらい形見として残っているこの春は何とも悲しいことだ。
 以上で話はお終い。
 この話に出てくる「熊野山炎上」は建永元年(元久三年、1206)二月二十八日にあった熊野本宮の火災のことです。この火災により本宮の社殿は焼失しました。
 このことが都に伝わったのが『一代要記』によると三月三日。そのため、曲水の宴を延期し、三月十二日に行うことに決めたのですが、後京極良経はそれを待たずに突然に三十八歳という若さで三月七日に死去してしまいます。
 自ら曲水の宴を催そうと思うくらいでしたから、きっと死の予感などというものもなかったのでしょうね。人生というものはわからないものです。
 私も、一瞬前までは元気でぴんぴんしていたのに、ということが何度かありましたし。明日どうなっているかなんて誰にもわかりませんよね。
 後京極良経は鎌倉前期の公卿。諸芸に通じていて、とくに書道に秀でていました。その書は法性寺流に新感覚を加えたもので、後に後京極流と呼ばれる書流を形成しました。
 熊野の火災についての記事。
嘉保三年(1096) 三月十日、熊野本宮焼亡、(『百錬抄』)
元久三年(1206) 二月二十八日、熊野本宮焼失之由、三月三日風聞、今日於中御門殿、可有曲水宴、而依此事、延引来月 、(『一代要記』)
承久三年(1221) 九月十三日子の刻本宮炎上、(『熊野年代記古写』)
貞応二年(1223) (十一月)十九日、熊野那智山焼亡、於本宮火事度々有例、当宮事先規不祥云々、(『百錬抄』)
弘長二年(1262) 同(十一月)一日、熊野悉焼失、(『一代要記』)
文永元年(1264) 十一月二十四日未剋本宮炎上、仮殿作、(『熊野年代記古写』)
(てつ)
2005.8.13 UP
 ◆ 参考文献
日本古典文学大系『古今著聞集』岩波書店
西尾光一・小林保治 校注『古今著聞集 下』 新潮日本古典集成
『本宮町史 文化財編・古代中世史料編』

ひとり色づく

―後京極摂政記―
良経の一生は、歌人としての歴史だけではありません。「武者の世」と呼ばれた内乱期を生きる、政治家としての姿も忘れてはなりません。ここでは良経周辺の動きもなるべく視野に入れて、彼の生涯を追ってみたいと思います。

藤原良経 Hujiwara_no yoshitune (1169~1206年)

九条兼実の次男。中御門摂政、のちに後京極摂政太政大臣と呼ばれる。秋篠月清、南海漁夫、西洞隠士などと号した。兄良通の死後、摂関家の跡取りとして政界の表舞台に立つ。源通親らの台頭により一時逼塞するがほどなく復帰、摂政、太政大臣に昇った。和漢の詩歌に優れ、藤原定家らの主唱する新風和歌を庇護し『六百番歌合』を主催。良経・定家らの研鑚はのちに空前絶後の詞華集『新古今和歌集』に結実する。新古今完成の直後、三十八歳での急死は、さまざまな憶測を生んだ。家集に『秋篠月清集』があり、日記『殿記』が部分的に残存する。除目任官の先例集として『大間成文抄』も手がけている。また、その書は後世「後京極流」として珍重され、佐竹本『三十六歌仙絵巻』などさまざまな作品が良経筆に仮託されている。

藤原良経略年譜
1169年 九条兼実の次男として生まれる。 乙童誕生
0歳~16歳
1179年 元服し良経と名乗る。
1181年 このころから連句・詩会に出席。


1185年 従三位に叙され公卿の仲間入り。 船出
17歳~20歳
1186年 父兼実が摂政となる。藤原定家が九条家に出仕する。
1188年 兄良通の死。『千載集』に入撰。
1189年 権大納言・左近衛大将となる。 新風和歌の時代
21歳~30歳
たぶん半分に分けます
(準備中)
1190年 『花月百首』『二夜百首』を詠む。
1191年 一条能保の娘と結婚。『十題百首』。
1193年 良経主催で『六百番歌合』が行われる。
1195年 内大臣となる。勅使として伊勢に下向。
1196年 建久の政変。九条家が失脚する。
1198年 『後京極殿御自歌合』を編む。
1199年 左大臣となる。 新古今、そして死
31歳~38歳
たぶん半分に分けます
(準備中)
1200年 良経の妻、死去する。『院初度百首』。
1201年 『老若五十首歌合』、『千五百番歌合』。和歌所寄人となり、『新古今集』編纂を指揮。
1202年 内覧の宣旨を賜り、摂政・氏長者となる。
1204年 太政大臣となる。
1205年 『新古今集』が一応完成、お披露目。
1206年 曲水宴を目前に謎の頓死。享年38歳。
ふろく(予定です、実現するかどうかは
藤原氏系図   古文書からみた良経  良経の書  良経の肖像画
良経の墓所  足利義尚と良経

風雅和歌集 雑上 #1435
見ぬ世まで 思ひのこさぬ ながめより 昔にかすむ 春の明ぼの

「六百番歌合」について

鎌倉幕府が成立した建久三年(1192)頃、九条家の後継者で当時権大納言兼左大将であった藤原良経が企画したのが、この「六百番歌合」です。作者には、慈円や藤原定家といった、この時代を代表する著名な歌人十二人が参加しました。判者には、勅撰集「千載和歌集」の撰者でもある藤原俊成が勤めました。評定・加判が完了し、この歌合が完成したのは、建久四年から五年頃と言われています。
ここでの題は、春十五題、夏十題、秋十五題、冬十題、恋五十題が用意されています。そのいずれも、結構ひねった難題ばかりが揃っています。その難題に十二人の歌人が挑み、詠みあげた和歌は全部で千二百首、その全てが良い和歌という訳ではありません。その内容は多様かつ多彩です。
この「六百番歌合」の面白さは、芸術としての和歌を巡る議論の奥深さにあります。十二人の歌人が左右の方人に分かれ、それぞれが相手の和歌に対して難陳がなされており、そこから歌論に対する白熱した当時の議論の様子を伺うことができます。特に、当時の歌論における好敵手同士であった、「御子左家」と「六条家」の歌人がそれぞれ参加しており、歌論を巡ってより深く熱い議論がなされております。さらに、それをあたかも左右の方人と問答するが如く付けられたのが、藤原俊成の判詞です。俊成の判詞からは、その文面の面白さもさることながら、和歌を判ずる俊成の質の高い芸術論を読み取ることが可能です。
なお、藤原俊成の有名な「源氏見ざる歌詠みは遺恨ノ事也」という名言は、この「六百番歌合」の判詞の中に出てきます。「冬上・枯野 十三番」を参照下さい。
「六百番歌合」作者解説
左方
藤原良経(1169-1206) 24歳
藤原氏北家摂家相続流、関白太政大臣法性寺兼実の二男、母は従三位藤原季行女。兄良通の夭折後、九条家の後継者となる。慈円は叔父にあたる。摂政太政大臣従一位に至り、後京極摂政・中御門摂政と呼ばれる。建久七年、源通親によって父兼実とともに失脚・蟄居の憂きめに逢うが、正治元年、和歌好きが昂じた後鳥羽上皇によって朝廷に復帰する。建仁二年には氏長者となり、土御門天皇の摂政となる。元久三年に謎の死を遂げる。
この「六百番歌合」の主催者で、「女房」という仮名で歌人としても参加。他に「南海漁父北山樵客百番歌合」を企画(この時の仮名は「南海漁父」)。和歌所寄人、「新古今集・仮名序」の執筆者。家集に「秋篠月清集(六家集の一つ)」。日記に「殿記」。



仮名序

やまとうたは、昔あめつち開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵞の里よりぞつたはれりける。しかありしよりこのかた、その道さかりに興り、その流れいまに絶ゆることなくして、色にふけり、心をのぶるなかだちとし、世をおさめ、民をやはらぐる道とせり。

  かゝりければ、代々のみかどもこれを捨てたまはず、えらびをかれたる集ども、家々のもてあそびものとして、詞の花のこれる木のもとかたく、思ひの露もれたる草がくれもあるべからず。しかはあれども、伊勢の海きよき渚の玉は、ひろふとも尽くることなく、泉の杣しげき宮木は、ひくとも絶ゆべからず。ものみなかくのごとし。うたの道またおなじかるべし。

  これによりて、右衛門督源朝臣通具、大蔵卿藤原朝臣有家、左近中将藤原朝臣定家、前上総介藤原朝臣家隆、左近少将藤原朝臣雅経らにおほせて、むかしいま時をわかたず、たかきいやしき人をきらはず、目に見えぬ神仏の言の葉も、うばたまの夢につたへたる事まで、ひろくもとめ、あまねく集めしむ。

  をのをのえらびたてまつれるところ、夏引の糸のひとすぢならず、夕の雲のおもひ定めがたきゆへに、緑の洞、花かうばしきあした、玉の砌、風すゞしきゆふべ、難波津の流れをくみて、すみ濁れるをさだめ、安積山の跡をたづねて、ふかき浅きをわかてり。

  万葉集にいれる歌は、これをのぞかず、古今よりこのかた七代の集にいれる歌をば、これを載する事なし。たゞし、詞の苑にあそび、筆の海をくみても、空とぶ鳥のあみをもれ、水にすむ魚のつりをのがれたるたぐひは、昔もなきにあらざれば、今も又しらざるところなり。すべてあつめたる歌二千ぢ二十巻、なづけて新古今和歌集といふ。

  春霞立田の山に初花をしのぶより、夏は妻恋ひする神なびの郭公、秋は風にちる葛城の紅葉、冬は白たへの富士の高嶺に雪つもる年の暮まで、みなおりにふれたる情なるべし。しかのみならず、高き屋にとをきをのぞみて、民の時をしり、末の露もとの雫によそへて、人の世をさとり、たまぼこの道のべに別れをしたひ、あまざかる鄙の長路に都をおもひ、高間の山の雲居のよそなる人をこひ、長柄の橋の浪にくちぬる名をおしみても、心中にうごき、言外にあらはれずといふことなし。いはむや、住吉の神は片そぎの言の葉をのこし、伝教大師はわがたつ杣の思ひをのべたまへり。かくのごとき、しらぬ昔の人の心をもあらはし、ゆきて見ぬ境の外のことをもしるは、たゞこの道ならし。

  そもそも、むかしは五たび譲りし跡をたづねて、天つ日嗣の位にそなはり、いまは八隅知る名をのがれて、藐姑射の山に住処をしめたりといへども、天皇は子たる道をまもり、星の位はまつりごとをたすけし契りをわすれずして、天の下しげき事わざ、雲の上のいにしへにもかはらざりければ、よろづの民、春日野の草のなびかぬかたなく、よもの海、秋津島の月しづかにすみて、和歌の浦の跡をたづね、敷島の道をもてあそびつゝ、この集をえらびて、永き世につたへんとなり。

  かの万葉集はうたの源なり。時うつり事へだたりて、今の人しることかたし。延喜のひじりの御代には、四人に勅して古今集をえらばしめ、天暦のかしこきみかどは、五人におほせて後撰集をあつめしめたまへり。そののち、拾遺、後拾遺、金葉、詞華、千載等の集は、みな一人これをうけたまはれるゆへに、聞きもらし見をよばざるところもあるべし。よりて、古今、後撰のあとを改めず、五人のともがらを定めて、しるしたてまつらしむるなり。

  そのうへ、みづから定め、てづから磨けることは、とをくもろこしの文の道をたづぬれば、浜千鳥あとありといへども、わが国やまと言の葉始まりてのち、呉竹のよゝに、かゝるためしなんなかりける。

  このうち、みづからの歌を載せたること、古きたぐひはあれど、十首にはすぎざるべし。しかるを、今かれこれえらべるところ、三十首にあまれり。これみな、人の目たつべき色もなく、心とゞむべきふしもありがたきゆへに、かへりて、いづれとわきがたければ、森のくち葉かず積り、汀の藻くづかき捨てずなりぬることは、道にふける思ひふかくして、後の嘲りをかへりみざるなるべし。

  時に元久二年三月廿六日なんしるしをはりぬる。

  目をいやしみ、耳をたふとぶるあまり、石上ふるき跡を恥づといへども、流れをくみて、源をたづぬるゆへに、富緒河のたえせぬ道を興しつれば、露霜はあらたまるとも、松ふく風の散りうせず、春秋はめぐるとも、空ゆく月の曇なくして、この時にあへらんものは、これをよろこび、この道をあふがんものは、今をしのばざらめかも。
d0041158_2161079.jpg

[PR]
# by sidu-haha | 2005-09-07 02:16 | Comments(0)