ものすごい馬鹿か、変人奇人が集まってきた。

場所は、とっても辺鄙な山の中~
江戸時代には、隠れキリシタンの里だった所~。


隠れキリシタンは、製鉄の技術を持っていた。
製鉄は、別の言い方をすれば、タタラ吹きのこと。


 
ご先祖様たちがやっていた製鉄を復元してみようじゃないか~
と、6人ばかりが談義した。

その実験を、一年に3回から4回の実験をしているという。


まあ、言えば、
曲がってみるような馬鹿(ではないが~)が、
とにかくやってみよう!!と、

「まんず、うめものくって、楽しくやっぺす~」
と、終わった後の酒を楽しみに、始まった。


先だっての日曜は、その開始三年目の記念日~

私たちも招待をされた。
ということは、
私も曲がってみるような馬鹿の一人~。(⌒▽⌒;;;Aアハッ

そんな馬鹿が、全国から集まって来た。

昨年、秋田でも会っているので、
まるで、同窓会のようなもの~

みんな、「いや~、うれしいっちゃね!!。
楽しいちゃっね~」と、ワイワイガヤガヤ~

朝、3:30に起きて、
家を出たのは、4:00過ぎ~

それから、はるばると高速を使い、国道を走り~。
道を間違いながら、到着したのが、6:30.

すでに炉には、火が入っていた。


最初の砂鉄と炭の投入が6:44~

さあ~、これからが、火との戦い~
男達は、きりっと顔を引き締め^
余計なことは言わず、黙々と始まった。


そのうちに、遠くからの馬鹿が集まってくる。

みんな、ニコニコしてね~。

男達の奥さん達が、
朝ごはんを食べていない人たちのために、
おにぎりやお煮しめ、漬物、
それと熱い火を使うので、冷たいものが、わんさと集まって~


もう、みんな楽しいの一言に尽きる感じ~

砂鉄は、阿武隈川から採集~。
炭は、地元で作られた。

すべての道具は、会員達の創意工夫のものばかり。

絶対にお金をかけないで、
廃品をつかったり、略奪とは言えないが~、
知人達から、
「あれ、くれっちゃや~^」と、貰ってくるのだという。

とにかく、みんな賢いし、器用だ。
恐れ入ってしまう。
これは、砂鉄選別器~
会員が、偉い先生が書いた図案を基に、
考案して作ったそう~


いよいよ佳境に入って来て、
鉄がうまく吹いているかどうかを確認する為の、
ノロ出しをした。

どうやら、炉底がノロで固まってしまったよう~


でも、決して会員達は、あわてない~

なんせ、実験の成果もさることながら、
できなかったら、できないでいいじゃない~。
という感じだから、最善は尽くすが、
失敗を失敗とは思わないことにしているだという。

やっと、ノロが出て、
またまた、砂鉄や炭を投入^

「体験してみたい人は、どうぞ~」
ということで、外野の人たちも、砂鉄や炭を
釜に入れてみることになった。

この人、東北大学院の教授~。
初めての参加だ。

もち、私もやらせてもらったよ~。

出来たケラは、約9キロ~。
成果としては、まずまずの出来だった。

中心になって指導した人は、
ほっと、棟をなでおろしていた。

もちろん、夕方は、全員が集まって、
飲んだり食べたり、ワイワイガヤガヤ~
楽しい時間が過ぎて行った。


朝早かったのに、夜は夜で、遅いから、
時間がすっかり過ぎた今頃~
とっても眠くなってきた~。

お昼寝をしないと~。(⌒▽⌒;;;Aアハッ





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# by sidu-haha | 2005-09-21 21:03 | Comments(0)
九条良経ー3
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熊野本宮焼失

建長六年(1254)成立の橘成季編著の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に熊野本宮が焼失した火災のことが書かれた話があります(巻第十三 哀傷第二十一 四六六)。
後京極良経曲水宴を催さんと日到らずして薨去の事
 後京極殿(藤原良経(よしつね)。後京極良経、九条良経とも。1169~1206)は詩歌の道にお優れあそばして、寛弘・寛治の昔を忍んで、建永元年(1206。元久三年。四月二十七日改元、建永元年となる)三月に京極殿(旧上東門院第。第(てい)は邸の意)にて曲水の宴を催そうと思い立ちになられた。
 藤原良経は和歌にすぐれ、十九歳の若さで『千載和歌集』に入集、二十五歳で「六百番歌合」を主催、建仁元年(1201)の和歌所開設に当たっては寄人筆頭となりました。『新古今和歌集』では、仮名序を書き、七十九首もの歌を入集させています(入集歌数は西行・慈円に次ぎ第三位)。
み吉野は山もかすみて しら雪のふりにし里に春はきにけり(春歌上 1)
吉野は山も里も霞んでいる。白雪が降っていた里に春が来たのだなあ。
 これが『新古今集』巻第一の第一首目を飾る良経の歌。
 寛弘・寛治の昔とは、寛弘四年(1007)三月三日に左大臣道長が上東門院第で催した例と寛治五年(1091)三月十六日に内大臣師通(もろみち。道長の孫)が六条水閣で催した例とを指します。
 巴(ともえ)の字のように湾曲して水を流し、住吉神社付近の松を引き植えなどして、さまざまにご趣向を凝らしていたが、熊野山炎上の噂が届いたので、三月三日を延期して中の巳(?)を用いられた例もあるといって十二日に行うとお決めになったところ、七日の夜に急にお亡くなりあそばした。人々の秀句はむなしく家に残されました。御歳三十八である。惜しく悲しいことであった。
 定家卿(藤原定家、このとき四十五歳)はこのことを嘆いて、家隆卿(藤原家隆、このとき四十九歳)のもとへ歌を申し遣わした。
昨日までかげとたのみし桜花 一夜の夢の春の山風
昨日まで木陰をつくってくれると頼みにしていた桜の花が一夜の夢を見ている間に春の山風に散ってしまったことだ。
 その返歌、
かなしさの昨日の夢にくらぶれば うつろふ花もけふの山かぜ
昨日良経卿が急逝せられ、夢のような気持ちがしているが、今日も山風に桜の花が散っている。
 後京極殿の御子の前内大臣(藤原基家。1203~1280。良経の三男)が大納言のとき、三十首の歌を人々に詠ませて撰定なさったとき、慈鎮和尚(慈円。良経の叔父。天台座主・大僧正)が往事のことを思い出しになって、「水に寄する旧懐」と題して歌をお詠みになった。
思出(おもひいで)てねをのぞみなく行水(ゆくみず)にかきし巴(はの)字の春のよの夢
良経卿のことを思い出して泣いてばかりいる。巴の字のように流れる水に数かくよりもはかないと歌われた春の夜の夢のような人生を思う。
 定家卿が同じ心を、
せく水もかへらぬ波の花のかげ うきをかたみの春ぞかなしき
せき止めても返らない行く水の波に流されていった花(良経卿)の面影がつらい形見として残っているこの春は何とも悲しいことだ。
 以上で話はお終い。
 この話に出てくる「熊野山炎上」は建永元年(元久三年、1206)二月二十八日にあった熊野本宮の火災のことです。この火災により本宮の社殿は焼失しました。
 このことが都に伝わったのが『一代要記』によると三月三日。そのため、曲水の宴を延期し、三月十二日に行うことに決めたのですが、後京極良経はそれを待たずに突然に三十八歳という若さで三月七日に死去してしまいます。
 自ら曲水の宴を催そうと思うくらいでしたから、きっと死の予感などというものもなかったのでしょうね。人生というものはわからないものです。
 私も、一瞬前までは元気でぴんぴんしていたのに、ということが何度かありましたし。明日どうなっているかなんて誰にもわかりませんよね。
 後京極良経は鎌倉前期の公卿。諸芸に通じていて、とくに書道に秀でていました。その書は法性寺流に新感覚を加えたもので、後に後京極流と呼ばれる書流を形成しました。
 熊野の火災についての記事。
嘉保三年(1096) 三月十日、熊野本宮焼亡、(『百錬抄』)
元久三年(1206) 二月二十八日、熊野本宮焼失之由、三月三日風聞、今日於中御門殿、可有曲水宴、而依此事、延引来月 、(『一代要記』)
承久三年(1221) 九月十三日子の刻本宮炎上、(『熊野年代記古写』)
貞応二年(1223) (十一月)十九日、熊野那智山焼亡、於本宮火事度々有例、当宮事先規不祥云々、(『百錬抄』)
弘長二年(1262) 同(十一月)一日、熊野悉焼失、(『一代要記』)
文永元年(1264) 十一月二十四日未剋本宮炎上、仮殿作、(『熊野年代記古写』)
(てつ)
2005.8.13 UP
 ◆ 参考文献
日本古典文学大系『古今著聞集』岩波書店
西尾光一・小林保治 校注『古今著聞集 下』 新潮日本古典集成
『本宮町史 文化財編・古代中世史料編』

ひとり色づく

―後京極摂政記―
良経の一生は、歌人としての歴史だけではありません。「武者の世」と呼ばれた内乱期を生きる、政治家としての姿も忘れてはなりません。ここでは良経周辺の動きもなるべく視野に入れて、彼の生涯を追ってみたいと思います。

藤原良経 Hujiwara_no yoshitune (1169~1206年)

九条兼実の次男。中御門摂政、のちに後京極摂政太政大臣と呼ばれる。秋篠月清、南海漁夫、西洞隠士などと号した。兄良通の死後、摂関家の跡取りとして政界の表舞台に立つ。源通親らの台頭により一時逼塞するがほどなく復帰、摂政、太政大臣に昇った。和漢の詩歌に優れ、藤原定家らの主唱する新風和歌を庇護し『六百番歌合』を主催。良経・定家らの研鑚はのちに空前絶後の詞華集『新古今和歌集』に結実する。新古今完成の直後、三十八歳での急死は、さまざまな憶測を生んだ。家集に『秋篠月清集』があり、日記『殿記』が部分的に残存する。除目任官の先例集として『大間成文抄』も手がけている。また、その書は後世「後京極流」として珍重され、佐竹本『三十六歌仙絵巻』などさまざまな作品が良経筆に仮託されている。

藤原良経略年譜
1169年 九条兼実の次男として生まれる。 乙童誕生
0歳~16歳
1179年 元服し良経と名乗る。
1181年 このころから連句・詩会に出席。


1185年 従三位に叙され公卿の仲間入り。 船出
17歳~20歳
1186年 父兼実が摂政となる。藤原定家が九条家に出仕する。
1188年 兄良通の死。『千載集』に入撰。
1189年 権大納言・左近衛大将となる。 新風和歌の時代
21歳~30歳
たぶん半分に分けます
(準備中)
1190年 『花月百首』『二夜百首』を詠む。
1191年 一条能保の娘と結婚。『十題百首』。
1193年 良経主催で『六百番歌合』が行われる。
1195年 内大臣となる。勅使として伊勢に下向。
1196年 建久の政変。九条家が失脚する。
1198年 『後京極殿御自歌合』を編む。
1199年 左大臣となる。 新古今、そして死
31歳~38歳
たぶん半分に分けます
(準備中)
1200年 良経の妻、死去する。『院初度百首』。
1201年 『老若五十首歌合』、『千五百番歌合』。和歌所寄人となり、『新古今集』編纂を指揮。
1202年 内覧の宣旨を賜り、摂政・氏長者となる。
1204年 太政大臣となる。
1205年 『新古今集』が一応完成、お披露目。
1206年 曲水宴を目前に謎の頓死。享年38歳。
ふろく(予定です、実現するかどうかは
藤原氏系図   古文書からみた良経  良経の書  良経の肖像画
良経の墓所  足利義尚と良経

風雅和歌集 雑上 #1435
見ぬ世まで 思ひのこさぬ ながめより 昔にかすむ 春の明ぼの

「六百番歌合」について

鎌倉幕府が成立した建久三年(1192)頃、九条家の後継者で当時権大納言兼左大将であった藤原良経が企画したのが、この「六百番歌合」です。作者には、慈円や藤原定家といった、この時代を代表する著名な歌人十二人が参加しました。判者には、勅撰集「千載和歌集」の撰者でもある藤原俊成が勤めました。評定・加判が完了し、この歌合が完成したのは、建久四年から五年頃と言われています。
ここでの題は、春十五題、夏十題、秋十五題、冬十題、恋五十題が用意されています。そのいずれも、結構ひねった難題ばかりが揃っています。その難題に十二人の歌人が挑み、詠みあげた和歌は全部で千二百首、その全てが良い和歌という訳ではありません。その内容は多様かつ多彩です。
この「六百番歌合」の面白さは、芸術としての和歌を巡る議論の奥深さにあります。十二人の歌人が左右の方人に分かれ、それぞれが相手の和歌に対して難陳がなされており、そこから歌論に対する白熱した当時の議論の様子を伺うことができます。特に、当時の歌論における好敵手同士であった、「御子左家」と「六条家」の歌人がそれぞれ参加しており、歌論を巡ってより深く熱い議論がなされております。さらに、それをあたかも左右の方人と問答するが如く付けられたのが、藤原俊成の判詞です。俊成の判詞からは、その文面の面白さもさることながら、和歌を判ずる俊成の質の高い芸術論を読み取ることが可能です。
なお、藤原俊成の有名な「源氏見ざる歌詠みは遺恨ノ事也」という名言は、この「六百番歌合」の判詞の中に出てきます。「冬上・枯野 十三番」を参照下さい。
「六百番歌合」作者解説
左方
藤原良経(1169-1206) 24歳
藤原氏北家摂家相続流、関白太政大臣法性寺兼実の二男、母は従三位藤原季行女。兄良通の夭折後、九条家の後継者となる。慈円は叔父にあたる。摂政太政大臣従一位に至り、後京極摂政・中御門摂政と呼ばれる。建久七年、源通親によって父兼実とともに失脚・蟄居の憂きめに逢うが、正治元年、和歌好きが昂じた後鳥羽上皇によって朝廷に復帰する。建仁二年には氏長者となり、土御門天皇の摂政となる。元久三年に謎の死を遂げる。
この「六百番歌合」の主催者で、「女房」という仮名で歌人としても参加。他に「南海漁父北山樵客百番歌合」を企画(この時の仮名は「南海漁父」)。和歌所寄人、「新古今集・仮名序」の執筆者。家集に「秋篠月清集(六家集の一つ)」。日記に「殿記」。



仮名序

やまとうたは、昔あめつち開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵞の里よりぞつたはれりける。しかありしよりこのかた、その道さかりに興り、その流れいまに絶ゆることなくして、色にふけり、心をのぶるなかだちとし、世をおさめ、民をやはらぐる道とせり。

  かゝりければ、代々のみかどもこれを捨てたまはず、えらびをかれたる集ども、家々のもてあそびものとして、詞の花のこれる木のもとかたく、思ひの露もれたる草がくれもあるべからず。しかはあれども、伊勢の海きよき渚の玉は、ひろふとも尽くることなく、泉の杣しげき宮木は、ひくとも絶ゆべからず。ものみなかくのごとし。うたの道またおなじかるべし。

  これによりて、右衛門督源朝臣通具、大蔵卿藤原朝臣有家、左近中将藤原朝臣定家、前上総介藤原朝臣家隆、左近少将藤原朝臣雅経らにおほせて、むかしいま時をわかたず、たかきいやしき人をきらはず、目に見えぬ神仏の言の葉も、うばたまの夢につたへたる事まで、ひろくもとめ、あまねく集めしむ。

  をのをのえらびたてまつれるところ、夏引の糸のひとすぢならず、夕の雲のおもひ定めがたきゆへに、緑の洞、花かうばしきあした、玉の砌、風すゞしきゆふべ、難波津の流れをくみて、すみ濁れるをさだめ、安積山の跡をたづねて、ふかき浅きをわかてり。

  万葉集にいれる歌は、これをのぞかず、古今よりこのかた七代の集にいれる歌をば、これを載する事なし。たゞし、詞の苑にあそび、筆の海をくみても、空とぶ鳥のあみをもれ、水にすむ魚のつりをのがれたるたぐひは、昔もなきにあらざれば、今も又しらざるところなり。すべてあつめたる歌二千ぢ二十巻、なづけて新古今和歌集といふ。

  春霞立田の山に初花をしのぶより、夏は妻恋ひする神なびの郭公、秋は風にちる葛城の紅葉、冬は白たへの富士の高嶺に雪つもる年の暮まで、みなおりにふれたる情なるべし。しかのみならず、高き屋にとをきをのぞみて、民の時をしり、末の露もとの雫によそへて、人の世をさとり、たまぼこの道のべに別れをしたひ、あまざかる鄙の長路に都をおもひ、高間の山の雲居のよそなる人をこひ、長柄の橋の浪にくちぬる名をおしみても、心中にうごき、言外にあらはれずといふことなし。いはむや、住吉の神は片そぎの言の葉をのこし、伝教大師はわがたつ杣の思ひをのべたまへり。かくのごとき、しらぬ昔の人の心をもあらはし、ゆきて見ぬ境の外のことをもしるは、たゞこの道ならし。

  そもそも、むかしは五たび譲りし跡をたづねて、天つ日嗣の位にそなはり、いまは八隅知る名をのがれて、藐姑射の山に住処をしめたりといへども、天皇は子たる道をまもり、星の位はまつりごとをたすけし契りをわすれずして、天の下しげき事わざ、雲の上のいにしへにもかはらざりければ、よろづの民、春日野の草のなびかぬかたなく、よもの海、秋津島の月しづかにすみて、和歌の浦の跡をたづね、敷島の道をもてあそびつゝ、この集をえらびて、永き世につたへんとなり。

  かの万葉集はうたの源なり。時うつり事へだたりて、今の人しることかたし。延喜のひじりの御代には、四人に勅して古今集をえらばしめ、天暦のかしこきみかどは、五人におほせて後撰集をあつめしめたまへり。そののち、拾遺、後拾遺、金葉、詞華、千載等の集は、みな一人これをうけたまはれるゆへに、聞きもらし見をよばざるところもあるべし。よりて、古今、後撰のあとを改めず、五人のともがらを定めて、しるしたてまつらしむるなり。

  そのうへ、みづから定め、てづから磨けることは、とをくもろこしの文の道をたづぬれば、浜千鳥あとありといへども、わが国やまと言の葉始まりてのち、呉竹のよゝに、かゝるためしなんなかりける。

  このうち、みづからの歌を載せたること、古きたぐひはあれど、十首にはすぎざるべし。しかるを、今かれこれえらべるところ、三十首にあまれり。これみな、人の目たつべき色もなく、心とゞむべきふしもありがたきゆへに、かへりて、いづれとわきがたければ、森のくち葉かず積り、汀の藻くづかき捨てずなりぬることは、道にふける思ひふかくして、後の嘲りをかへりみざるなるべし。

  時に元久二年三月廿六日なんしるしをはりぬる。

  目をいやしみ、耳をたふとぶるあまり、石上ふるき跡を恥づといへども、流れをくみて、源をたづぬるゆへに、富緒河のたえせぬ道を興しつれば、露霜はあらたまるとも、松ふく風の散りうせず、春秋はめぐるとも、空ゆく月の曇なくして、この時にあへらんものは、これをよろこび、この道をあふがんものは、今をしのばざらめかも。
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# by sidu-haha | 2005-09-07 02:16 | Comments(0)
刀剣初心者講座^
疲れてしまった~。
結構みんな気が入っていて^
女性も一人来ていてね。
私も刀の手入れを教えていただきました。
楽しかった!!

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# by sidu-haha | 2005-09-04 22:52 | Comments(0)
夏油へ行って来た~
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 少し早い夏休みというのでもなかったが、北上市のみちのく民俗芸能まつりに招待を受けた。まつりは三日間続き、その間に市内外に伝わる民俗芸能がいくつもの会場で舞われるという壮大な祭りだ。私は日曜日を避けてその二日目にお邪魔した。
 北上市というのは、黒沢尻町・立花町・飯豊町・二子町・更木町・福岡町・鬼柳町・相去町・江釣子村、そして和賀町などが合併し、市内を北上川が流れているということから、その名を北上市と命名された。北上市というより和賀町に通いだしてから、早二十年ほどの時間が過ぎているが、この祭りを見るのは初めてだった。
 当日は、午後から開演という鬼剣舞を見ることになっていた。これらの踊りは外で夏の日を浴びながらの公演と思い、庇の長い帽子やタオルを何本も用意して出かけた。ところが前沢SAを出る頃には、ポツポツと雨が降り出し、平賀昭士さんの家に到着したときには、酷い降りようになっていた。これでは、取り止めだろうとがっかりしながらチャイムを押したが、平賀さんはそ知らぬふりで、「じゃ、いぐが~」と、車の方へ急ぐのだった。不思議に思い尋ねてみると、市民会館のさくらホールが会場だという。心配しなくとも大丈夫だったんだと、胸をなでおろした。
 すでに会場はでいっぱいで、空席が少なくなっていた。結局三階の一番高い場所しか空いてなくて、そこに陣取った。まもなく可愛い浴衣姿のお姉さんが現れ、司会を始めて踊りは始まったが、ステージは遥か遠い位置にあり、どうしても迫力に欠けた。期待してきただけに、ガッカリするばかりで、その上撮影禁止と放送され、ことさらそれがつのった。
 ここでいう民俗芸能というのは大きくわけると、鬼剣舞・鹿踊り・神楽・田植え踊り・太鼓などになっている。私が見せていただいたのは鬼剣舞で、角のない鬼の面をつけ、剣を携え、頭には必ず鶏の毛の束をかざしている。面の色も白・赤・青・黒などがあり、その役目によって分けられているようだ。鬼剣舞とは念仏踊りの中に分けられ、亡き人を供養する為の踊りであるという。したがって夏の日に踊られる意味がそこにあり、一人加護とか三人加護という呼び方、踊り方があり、正確にはまだ不勉強でそのわけ方についてはわからない。
 また「○○くずし」という踊りもあり、これはまるで曲芸のような踊りだった。剣を自在に振り回し、何本もの剣を一度に持ちながらの踊りやアクロバットのような踊りは、すばらしいという前に、胸がハラハラさせられた。
面をつけ、衣装を着、袴の後ろにはなにやら大きな飾りをつけ、さらになぜか子ども用かと思われる小袖を着けて踊る踊り手たちには、老齢の方もおられたのであろうが、若い方々もたくさんいたようだった。鬼剣舞は跳躍とリズミカルな動きが魅力の一つだから、体力のない人には踊れないものだった。面の下の顔を是非拝顔したいものと思っていたら、ある団体が踊り終わると、司会がその中の一人にインタビューをしてくれた。面を取ったその下の顔は、なんと二十歳の可愛い女性だった。しかもこの団体は、東京から来ているという。この女性は、鬼剣舞の魅力を「気持ちの高ぶりがなんともいえない」と話していたが、見ている者にとっても、それは同感だった。すぐ側で動きを見ることができないという感もあったが、踊り手たちの心と長い時間を伝え踊って来たという自負のようなものがヒシヒシと伝わって来た。つい肩に力が入っていたようだが、次世代への伝承が精一杯なされているのがとてもうれしく、延々と十五番の踊り全部が終わったときには感動が強く残った。
夜は夏油温泉に泊まることになっていた。北上市の中心部から夏油までは、一時間以上を要したような気がする。案内してくれた平賀の車に乗せてもらって向かった。和賀町を過ぎ山に入り始めると緑の木々に蝉の声のBGMが、なんとも言えぬハーモニーをかもし出していた。あがったばかりの雨が、真っ白い雲になってムクムクと空へ帰っていく様子は、まるで宮沢賢治の世界だったし、時々見えるトリアシショウマの白い花やリョウブの真っ白な矛先のような花群は、雲の行方を確かめるように天を向いて咲いていた。
しだいに夏油が近くなるにつれ、ブナの林が多くなってきた。突然車が止まり、「これが夏油の桂だ。」と平賀さんが話してくれた。ものすごい大樹だった。早速写真を写そうとすると、少し左手に回って見た方がよいという。回って見て驚いた。木の太さが一段と太く見えたし、下方に出来た洞も迫力あるものだった。何百年生きていたのだろうか。いや千年も生きて来たと思えた。平賀さんは巨木の会の会長さんだから、この辺りにある木の存在はすべて詳しく知っている。またしばらく行くと、今度は北上一大きなブナだと言う。道より少し下がった位置から、根元が積雪のために曲がっているが、がっしりとそして太々と大きな枝を広げて茂っていた。なんて大きな木なんだろう。こんな木があったなんて、すごい!!山は人の力の及ばないすばらしい力を秘めていた。
ブナはたくさんの実をつけていた。これを熊たちが食べるのかと思うと、とても愛おしく思えた。最後まできっちりと実が入り、熊たちが里へ降りて来ないでも暮らせるといいなあと念じそこを離れた。それにしてもブナの葉の緑は美しい。透き通るような優しい緑は、どんな人の心も癒してくれるだろう。
食後露天風呂に行こうと誘っていただいた。夏油温泉は露天風呂がすばらしいので有名で、車のナンバーも湘南・横浜・所沢・栃木など関東方面のが多く見られ、岩手や宮城の車は少なかった。大湯に行くと風呂の上に屋根がかかっていたが、脱衣所は男女別でも風呂は一緒という具合で、少々勇気のいった。しかし薄暗いからとたかを括って入ると、足をつけただけで、痺れるような熱さのお湯だった。何度かそれを繰り返し、やっと肩まで入るのにはかなり時間を要したと思う。しかし、いつまでも入っておれず、早々にあがった。次に疝気の湯に入った。ここは屋根もなく浴槽も小さく、川の流れが間近で、対岸の傾に咲いているヒヨドリソウの花が、ぼっぼっと夜灯のように見えてとてもすてきだった。
この湯ではぬるい湯ということもあって、館林から来ていた女性と長々と話し、すごく温泉気分を味わった。こうして川沿いに七つほどの湯が沸いており、それぞれが違った泉質を持っているという。
翌日は朝食後石灰華ドームを見に連れていってもらった。石灰華は、簡単にいうと湯の花が積もり積もって現在のような形になったもので、たぶん何万年かの時間を積んでいると思う。これは夏油川沿いになるので、宿から山道を登ったり下ったりして到着する。夏油川は牛形山から流れ出し、夏油温泉に届くまでにはたくさんの沢と合流しながら流れて来るという。昔はマンダ沢とか、ガックラ沢などというのを越え、丸木橋を渡り、命からがら登って来たものだと郡司直衛さんの本にあった。
宿からすぐ山の斜面を登りだした。まもなく大きな木の倒れているのに会った。すっかり根が顔を出しすでに枯れているようだった。大雪に倒れたのかもしれない。この倒木で道はほとんどふさがれているので、それを越えて登った。いろいろ冒険ができそうで、とっても楽しい道だった。山にはエゾアジサイが色鮮やかに咲いていて、心を和ませてくれる。「これから下りになるよ~」と平賀さんの説明。その分帰りが大変なんだという。これは覚悟しなければならにようだ。後350mという所に案内版があった。そこからさらに下り、それからは川の流れにそって、沿岸のほんとに際の所をあるくようになった。足を踏み外せば川に落ちるようなところもあって、なかなか冒険心を煽られるが、楽しい野の道だった。しばらく進むと、見えて来た。デッカイだるまのような姿の不思議な物が。これが、石灰華なのだ。はじめの出会いに胸がドキドキするようだった。自然に流れる温泉の湯のままに、ドームもゆったりとした流線型をしている。目と鼻をつけるとまさしく天狗の顔のようだった。それにしても大きい。手前から写真を写した私は、このドームに触れてみたいと思い、川に降りることにした。丁度国土交通省の設置した鉄筋を曲げただけの会談があったので、靴を脱ぎ、靴下を脱いでそろそろと降りてみた。初めて水に足が入ると、<ううっ、ツメタイ>なんという冷たさか。こんなにしゃっこいなんて、ビックリするやら、うれしいやら。流れは結構きついので、ゆっくりと対岸へ渡って行った。そしてドームに触れて、記念写真を写してもらった。結構上の方に触ったように思ったのに、出来上がって来たしゃしんには、まるで蚊か蝿が止まっているように見えた。それほど大きな石灰華だった。昔はこの上と下の右手にも露天風呂があったそうで、天然記念物に指定されてからは、それはなくなったという。それにしても上るのがたいへんだったろうね~持って行ったトマトを川に漬けて冷すと、十分も冷していないのに、もう、冷たくなっていて、とっても美味だった。これぞ天下一品だ。だれにもご馳走できなかったけど、行った者の特権ですね~。上流には誰も住んでいないので、飲んでも大丈夫というので、飲んでみた。もちろん冷たくっておいしい水だった。空のペットボトルがなくって、残念だったけど、すばらしい山の空気と川、草木に触れ、久しぶりに童心に返って、とっても楽しい時間だった。案内してくださった平賀さんに感謝している。
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# by sidu-haha | 2005-08-14 01:14 | Comments(1)
鍛冶谷沢ー聞き取り

鍛冶谷沢  聞取り

★高橋明(81歳)さん
鳴子町大口字町(もとからの住所である)

ここには、11の神様があった。
部落の人達が頼んで、10年ぐらい前に、名生定からお神楽が来てもらって、あげでもらった。

12の神様
山神・三吉様・湯殿山・月山・太平山・白山様・若木神社・八幡様・水神様・馬頭観音・熊野神社(おくまんさま)・愛宕さま

水神様は、昔は山奥にあった。
水の湧き口にあって、町の水道の取水口になっている。
取水口は、釜の沢にある。

本来の鍛冶谷沢には、人家はない。
鍛冶谷沢というのは、通称地名である。



本来の鍛冶谷沢というのは、川渡中学校の後の上り口の石碑の並んでいる所が、本来の沢であり、寄宿舎を建てる時に均した。その沢が鍛冶谷沢で、小さな沢を鍛冶谷沢といった。
とても急な坂だった。胸突き坂であった。

おら、小さい時は、目の神様だという小さい石があって、元朝参りをしたり、目が悪い時には、小豆をぱらぱらと蒔いて、まなぐの悪い人は拝んだものだ。
現在の石碑の並んでいる場所の二軒手前の家(庄司さん)の家の後にあった。

川渡中学校の寄宿舎建設の際、どこかへ行ってしまい、失くなった。愛宕様も一緒になくなった。

石碑の並んでいる中の三角の石が、荒神様である。

鍛冶谷沢は、三条小鍛冶宗近が鍛冶谷沢で、刀を打ったと言われている。その刀を打った所に、石が祀られている。
上るのには、胸着き坂で、上は平らになっていた。



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# by sidu-haha | 2005-05-10 22:56 | Comments(0)
天気晴朗なれど~
久々ショッピング
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# by sidu-haha | 2005-05-04 20:13 | Comments(0)
久々ショッピング
このところ、ずっと、忙しい。
でも、たまには、息抜きだぞ~^。
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親しくしている家のかわいこちゃんと、二人でドライブ。
仙台で、ショッピングタイム~
楽しかったよ。
でも、ちょっぴり疲れたなあ~。

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# by sidu-haha | 2005-05-04 18:43 | Comments(0)