地名かな。
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1.地名に対する一般の考え
地名というと、ただの記号とか、住所の記載の為の、あるいは税金徴収の為に必要なものだと、いとも簡単に考え、行政も為政者もその価値について重要視する人が少ないというのが現状である。
国は、たびたび大掛かりな市町村合併を繰り返してきた。その都度地域住民は先祖以来の誇りと伝承を持つ地名を失ってきた。そして、失った地名の中にこめられた事実や歴史、先人の知恵や教えをすっかりないがしろにしてきたと言える。
たとえ学者の中に気がついた人がいたとしても、それを表面化してきた人は少ない。気がついて後世へ語りかけようとした人はいたが、それを受け止めた人は何人いただろうか~。
それが、地名に課された現実であり状態である。

2.一口という地名
一口と書いて、なんと読むのか、知っていた人は少ないと思う。ましてこの地名にこめられた祖たちの祈りにも似た心境なら、もっと知らないでいたといえる。現実的には、漢字を音読みにして、ヒトクチと読む人が増えているのではないか。そして行政もいつの間にかヒトクチという地名だったと表記するようになっていく。それが現実だ。
 この地名は、イモアライと読む。イモとは、疱瘡つまり天然痘のことである。古代人はワクチンや予防注射などというものの存在を知らない。したがってたくさんの人が感染していき、最後には家族全員ならず集落全員をも死にいたらしめるこの大病を恐れおののいた。人々は、集落の境に神祭りをし、お払いをして、疱瘡が集落に進入することを阻止しようとした。つまり斎払い、忌み払い、忌み洗いなどが転化してイモアライと言葉が変わったのだろう。
なぜ一口と表記されたかまでは定かでないが、そんな思いが地名となって残ったのである。古代人ならずとも、家族を守ろうとする人々の気持ちがよく理解できるのではないだろうか。そんな思いのこめられた地名が、ワンサと身近に残っているとしたら、少々考えなおさなければならないのでは~。

3.地名の最古の記録
これは、国内の記録ではなく、中国の『魏志倭人伝』に記録されたものです。その中には、30ほどの地名が記録されており、日本の地名の最古の記録です。もちろん『魏志倭人伝』については、すでにご存知のことと思いますが、一応ここに復習の意味をかねて話してみますと、『魏書(東夷伝)』にある倭人に関する記事のことで、邪馬台国(やまたいこく)とその女王卑弥呼(ひみこ)について記されており、三世紀の日本の政情・風俗などを知りうる文献として広く知られています。

記録 読み 該当地 記録 読み 該当地
対馬 つま 対馬 末廬 まつろ 松浦
一支 いき 壱岐 奴 な 那=名島
伊都 いと 糸島半島 不弥 ふみ ?
投馬 とうま ? 斯馬 しま ?

次に、国内の記録の古いものとしては、文献ではなく、発掘品あるいは出土品の中の文字に織り込まれた地名があります。一つは和歌山県橋本市、隅田(すだ)八幡神社所有、国宝「人物画像鏡」の銘文で、そこには『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』と刻まれており、意柴沙加宮(おしさかのみや)が地名になります。意柴沙加は古事記に中では、忍坂と記されている地名です。現在の桜井市忍阪のこととされ、神武東征の伝承の舞台として知られています。
 もう一つは、昭和五十三年に発見されて解読された埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣の文字に「斯鬼宮(しきのみや)」の地名があります。
そのほか「和名類聚抄」という日本最古の百科辞典には各地の地名が記されており、万葉集にも各地の地名が記載されています。

4.地名の転化
 日本の地名は、本来の意味とかけ離れた文字が当てられていることが多々あります。それが、時代と共に文字も変わり、本来の意味も変化していく要因の一つです。また古代においては、地名の文字を二字で表記するようにとか、印象のよい文字を当てるようにという法令がありました。それは、好字・嘉字といわれるものです。
その例として、大阪は古くは和泉国ですね。もっと以前はただ単に泉と書いていたのです。また『出雲風土記』に記載されている拝志は古くは林と表記されていた。武蔵国は、もともと牟邪志(むざし)、牟佐之などと書かれていた。遠江(とおとうみ)や近江(おうみ)も元は「遠淡海(とおつあふみ)」と「近淡海(ちかつあふみ)」であったのを二字化政策で短くしてしまった。遠淡海とは都から遠いところにある湖ということで浜名湖を指し、近淡海は近い湖ということで琵琶湖をさしている。

5.アイヌ語で解ける地名
 アイヌ語といえば北海道とすぐ思われるかもしれないが、東北にもたくさんのアイヌ語地名が散見できる。これはかつて、アイヌ語を使用して生活していた人たちが住んでいたことの証明である。だからといって、それが必ずしもアイヌ人だったとは言い切れないので注意を要する。
宮城県内でも数は少ないが見られる、たとえばかつて大きな沼として存在した品井沼は、シナイがアイヌ語である。シは「親・本当の」などの意味があり、ナイは「沢や川」を示す。つまり「本流の川」で、品井沼は「本流の入り込んだ沼」となる。その沿岸にある大郷町不来内(こずない)は、やはりアイヌ語で解釈できる。コツは「窪んだ」とか、「谷間」の意。ナイは、「沢とか川」という意味だから、[窪んだ沢]とか、[谷間の沢]となる。この辺りは元禄年間から干拓が始まった品井沼の沿岸に位置しており、その入江に拓けてできた集落である。県内には、まだまだアイヌ語で解ける地名がある。

6.災害と地名
 地名には先人のメッセージがたくさん籠められている。その中でも崩壊地名と言われるものがある。例えば小豆島というのがあるが、これは古くはアズキシマと呼ばれていた。
それが文字化されたことにより、その文字を音読みしてショウドシマとなったのである。アズは、崖地に多く、アスは「崩れやすい所」という意味を示す。したがって崩れやすい崖の意味になる。事実昭和51年9月13日の台風13号が西日本に居座ったとき、小豆島ではあっちこっちで山崩れが相次ぎ、大きな被害をもたらしたという。同じ小豆島の名勝である寒霞渓(かんかけい)も、元は神懸山(かんかけやま)と呼ばれ、火山性の集塊岩が不規則に崩れて奇観を見せている。懸・掛・欠などのつく地名は崩れやすい崖やその地が欠けたということを語っている。地名はまさしく大きな暗号を持って、先人の思いを伝えているのであると言える。

7.地名ランキング
これは宮城県内の場合であり、データは少々古いのでお断りしておく。

1 谷地 180 6 袋   40 11 反   31
2 待井 170 7 赤坂  37 12 十文字 26
3 要害 76 8 竹花  33 13 石押  24
4 在家 43 9 坪   31 14 曽根  22
5 埣  41 10 百目木 31 15 水押  18

8.地名は人と共に移動する
古代には、人の移動や移配がたくさんあった。大和朝廷や武家制度の徹底を図る為に、たくさんの人間の移動や移配があった。移動は東北の蝦夷(えみし)に対する王化の侵攻で、特に関東からの移動が多かった。歴史的にも記録が少しはあるが、今日では関東系土器と呼ばれる特殊な土器の出土により、まさしく関東からの移動や移配がたくさんあったことが証明されている。しかし、地名はそれ以前に、ずっと早くからそれを私たちに伝えていたのである。

曰理郡望多郷 上総望多郡 名取郡磐城郷 陸奥磐城郷
賀美郡 武蔵国賀美郷 玉造郡志太郷 常陸国志太郡
小田郡賀美郷 武蔵国賀美郷 志太郡志太郷
賀美郡磐瀬郷 陸奥国磐瀬郷 志太郡
色麻郡安蘇郷 下野国安蘇郷 新田郡 上野国新田郡
色麻郡相模郷 相模国 牡鹿郡賀美郷 武蔵国賀美郡
桃生郡磐城郷 陸奥国磐城郷 栗原郡会津郷 陸奥国会津郡
登米郡行方郷 常陸国行方郡
陸奥国行方郡

9.地名が語る重要性
 この頃は国の政策で合併が進められて、思いがけない地名が生まれている。たとえば東北では奥州市(水沢周辺)、南三陸町、東松島市なんていうのが生まれた。これって、ほんとにそのエリアに該当しているだろうか。そんなに大きなエリアを名乗るほどの地域なんだろうか。よく考えてほしかったです。
 地名は、決して、ただの記号じゃない。地名は、言葉の化石であり、共同意義を持ち、記号以上のもので、大変崇高なものである。たまには、トンチやクイズで解ける楽しいものもある。どうか、よく考えて、エリアの歴史・民俗・習慣・言い伝え・生活や地形にこだわって欲しい。
地名については、まだまだたくさん書くことがありますが、今回はこれくらいにして止めておきます。また、お会いできるまでの楽しみといたしましょう。d0041158_17392128.jpg
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by sidu-haha | 2005-11-04 17:39 | Comments(0)


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